学生が見つけた食のバリアフリー!
東日本大震災の被災規模は想像を超えるものでした。あまりにもマクロで大きな衝撃なのでミクロの一人一人の被災者へのケアが後手に回ってしまったのは致し方がありません。しかも、被災地からの「要請主義」により迅速な支援の妨げになったことは否めません。
震災発生して混乱した中で、人工透析患者や食物アレルギー患者がSOSを出せる状況にはありませんでした。健康な人でさえ自分の身を守ることが精一杯の状況で、食事制限者が特別食を要求すことなどできるはずもありません。ですから、当然、主張をしないのだから自治体に必要な制限食の支援要請など患者側からでませんので、被災県から救済県へ支援要請もでる訳がありません。
ですから、中越大震災の教訓で開発し東京都や新潟県で備蓄している「はんぶん米」が被災地の人工透析患者のカリウム中毒、塩分過多防止のために役立つことはありませんでした。中越大震災の体験から次の災害時には人工透析患者の職を守るとの思いで開発したのに、東日本大震災で活用されなかったのは忸怩たる思いのみが残りました。エコ・ライス新潟では東日本大震災発生から48時間後には会社に在庫してあった「はんぶん米」をはじめとするする支援物資を岩手・宮城に届けるに留まってしまり自治体での備蓄は活用されませんでした。
それでも、「緊急車両」許可書さえあれば震災発生当日に支援に動けました。被災県の患者団体から支援要請などできる状況になく、東京に本部のある人工透析患者団体からの支援要請書を持って新潟県警察本部に交渉して緊急車両の許可をもらいました。
支援が遅れたのは残念しかたありません。
白藤プロジェクトは、震災が発生した3月に宮城県七ケ浜町の避難所で、「人工透析患者、食物アレルギー患者」の支援に入りましたが、対象者を見つけられませんでした。しかし、厚労省や東京都の統計などを見ても人口の一定の比率は統計学的に必ず患者が存在します。しかし、見つけることができなかったのは謎でした。
その謎が解けたのが越後湯沢の「赤ちゃん一時避難プロジェクト」(赤プロ)に支援に入ってからです。越後湯沢のリゾートホテルを被災県(主に福島県)の乳児・幼児を育てる母子の避難所でした。この避難所に食物アレルギーの母子が入居したとの相談があり、どのような施設であるか下見に行ったのがきっかけで支援に入ることにありました。
白藤プロジェクトの高橋リーダーとガトウ専科で、米粉を原料にして小麦・乳・卵を使用しないスイーツを試作して赤プロに訪問し、夕食で集まる母子たちに配りました。すると、1組みしかいないと言われていた食物アレルギーの子供達が次から次へと出てきます。要するに「うちの子供は食物アレルギー」と言えなかったのです。赤プロは医師や看護師など医療スタッフが常駐する母子のための施設に避難していても言い出せない現実…。
しかし、逆に考えると「我が家の子供が食べられるスイーツ」を持って行ったことで、「サイレントマジョリティー」の食物アレルギーの母から反応を引き出すことができました。これはマーケットニーズを発見することと同じであるように思います。ニーズを引き出すことは、食のプロを目指す栄養士の卵の学生たちが避難者の母子に体当たりでぶつかって行ったからこそできたと思います。
この体験が米粉シュークレープ開発の原点となりました。